ひろしま戦前の風

[1]「広島市家族同伴」より

大正15年(1925年)9月15日 撮影:藤井重一氏

中区大手町など

1:05

可部町在住の撮影者が家族と共に広島市を訪れた際に撮影。初めのカットは元安橋を歩く家族。元安橋は同年に竣工したばかりで、参考資料によると「親柱の上には橋詰めの球が、その間には照明灯が載せられ、広島県立商品陳列所(1933年に産業奨励館と改称)付近のモダンな光景を一層高めていた」。その後映像は、産業奨励館の横から相生通りに出て、日清戦勝記念碑へ歩き、ピクニックをする親子の姿を収めている。
参考資料:「ヒロシマの被爆建造物は語る」 広島平和記念資料館 1996年

[2]「広島寿し徳食堂にて」より

大正15年(1925年)10月23日 撮影:藤井重一氏

中区中島町

1:14

1.と同じ撮影者の映像。中島本町(現平和記念公園内)にあったと思われる洋風食堂での家族会食の様子、対応するエプロン姿の女給さん、食堂2階の窓から撮影したと思われる元安橋や対岸の商品陳列所(産業奨励館、現原爆ドーム)が撮影されている。

[3]「第一回防空演習」より

昭和8年(1933年)3月 撮影:中野代吉氏

中区本川町など

2:06

防空演習は空襲による被害を想定して行なわれた訓練。この映像は鍛冶屋町(現本川町)在住の撮影者が周辺地区の第1回防空演習を記録したもの。本川小学校での開会式では、後方に産業奨励館が認められる。電車道での放水や発炎筒、滞空機銃掃射など、元安橋や現在の平和記念公園周辺で行なわれた、様々な訓練を紹介している。映像にある現原爆ドームはこの年に「商品陳列所」から「産業奨励館」と改称された。

[4]「春」より

昭和10年(1935年)4月ころ 撮影:河崎源次郎氏 提供:広島平和記念資料館

中区大手町、紙屋町など

2:19

桜のシーズンに撮影された広島市中心部。相生橋土手の桜並木、市内電車が走る相生橋、元安川でボート遊びや釣りを楽しむ人々、川との景観を考慮して設計された産業奨励館、福屋新館 建設前の八丁堀電停付近、今は平和公園となっている中島地区、少し離れた繁華街「新天地」の賑わいなどがフィルムに収められている。この頃の相生橋はT字型への改修が行なわれている途中で、明治時代に架けられた木製橋とともにHの形をしていた。

[5]「Hukuya Department Store 13.4.1」より

昭和12年~昭和13年(1937年~1938年) 撮影:金田民夫氏 提供:広島平和記念資料館

中区胡町、八丁堀

2:53

昭和4年(1929年)に開業し年々賑わいを増す八丁堀で業務を広げた福屋百貨店は、昭和13年4月1日、南向かいに、冷暖房施設を備えた地下2階、地上8階の新館を開店した。この映像は建築中の昭和12年から、開店した昭和13年4月1日ごろに撮影されたもの。開店でにぎわう福屋周辺や金座街、売り場、向かいの福屋旧館、建築中の新館、東に位置する7階建ての中国新聞社新館、行き交う市内電車や自動車などを紹介している。新館開店と同日、国家総動員法が公布された。福屋百貨店新館は修復を重ねながら現在も福屋店舗として使用されている。

[6]昭和産業博覧会 正門

昭和4年(1929年) 撮影:田部華吉氏

中区基町

1:36

広島市主催の昭和産業博覧会は、昭和4年(1929年)3月20日から5月13日まで55日間、市内3つの会場で開催され、約174万人が入場した。この映像は、西練兵場(現在の紙屋町交差点北側一帯)に設営された第一会場正門前から撮影。初めのカット後方に紙屋町交差点と市内電車が認められる。その後映像は、象の見世物と見物する大勢の人々のカットへと続く。博覧会公式記録である参考資料には、象の展示があった等の記載がなく、見物の映像が昭和産業博覧会でのイベントであったかどうかは確認できていない。なお、映像が短いので、判別しやすいよう再度スローで映像を掲載している。
参考資料:「広島市主催昭和産業博覧会誌」広島市役所1930年、「広島市主催昭和産業博覧会協賛会誌」昭和産業博覧会協賛会1930年、「広島市主催昭和産業博覧会写真帖」昭和産業博覧会協賛会 1929年

[7]昭和産業博覧会 子供の国

昭和4年(1929年) 撮影:橘高寿人氏

中区基町

0:51

広島市主催の昭和産業博覧会第一会場(西練兵場:現在の紙屋町交差点北側一帯)には、様々な産業を展示した本館の他、満蒙館、樺太参考館、朝鮮館、台湾館、北海道館など、個性的なパビリオンも設けられていた。参考資料によると、前半映像にある朝鮮館は、「純朝鮮式宮殿作りの建物で艶麗優美な色彩」で、建物は「本館、即売場、食堂、来賓室」に分かれ、「即売場はあたかも朝鮮市場に入るの感あり、食堂では、朝鮮米、朝鮮料理を主要献立として、客を引いた」とある。後半映像は、第一会場西側の「子供の国」に設置された別途有料の遊戯施設、飛行塔とサークリングである。飛行塔は「高さ五丈の鉄塔に六人乗りの模型飛行機四台を吊し、動力によって、これを旋回しつつ上昇、下降せしめると共に、プロペラーも回転せしめて、あたかも、実物飛行機に搭乗したと同様の感じ」で、「有料にも拘らず、何時も乗客満員という大人気」であり、「直径十五尺の円形座席で、定員約七十名を搭乗せしめ得る大サークリングもまた人気物の一つ」であった。
参考資料: 「広島市主催昭和産業博覧会誌」 広島市役所 1930年

[8]羽田別荘 動物園

昭和4年(1929年)ころ 撮影:田部華吉氏

中区舟入町

1:10

羽田別荘は明治33年(1900年)に創業、現在も続く老舗料亭。この映像が撮影された頃は二つの滝がある広大な日本庭園、海外公演も行なった少女歌劇団を擁するほか、敷地内には小動物園もあった。映像には庭園内の水鳥のほか、動物園で飼育されていたと思われる様々な動物、そして日本建築の料亭建物が撮影されている。この映像は田部氏が撮影した昭和産業博覧会(昭和4年開催)の次のカットで撮影されており、同じ頃の映像である可能性が高い。昭和4年(1929年)7月、園内の動物は新しく開園する熊本県の「水前寺動物園」(現熊本市動植物園)に買収され、羽田別荘の動物園は閉鎖された。参考資料によると、水前寺動物園が羽田別荘の経営者から購入した動物は、ライオン、ヒョウ、ヒグマ、タンチョウ、フラミンゴ、ヘラサギなど29種である。
参考資料:「熊本動物園60周年記念 動物園ものがたり」熊本動物園 1989年
協力:羽田別荘

[9]「羽田別荘 庭園の水禽」より

昭和4年(1929年)ころ 撮影:橘高寿人氏

中区舟入町

0:51

田部氏撮影フィルムと同じく、橘高氏が撮影した昭和産業博覧会(昭和4年)のフィルムに含まれており、同じ頃に撮影された可能性が高い。映像のヘラサギと思われる水鳥がたたずむのは、羽田別荘に今も残る滝の下周辺。フィルムには様々な水鳥が撮影されている。
協力:羽田別荘

[10]広島城の花見

昭和11年(1936年)ころ 撮影:大宮忠美氏

中区基町

1:33

竣工間近の広島商工会議所映像が同じフィルムに撮影されていることと、相生橋の形から、撮影時期は1936年春ころと思われる。広島城内には明治時代、天皇が戦争の指揮を取った「大本営」が置かれ、昭和の時代には記念館として一般公開されていた。映像には、大本営跡の前で花見を楽しむ人たち、桜の池、国宝であった広島城天守閣などが記録されている。広島城天守閣は原爆で倒壊したが、戦後再建され、大本営跡と桜の池は遺構が現存している。

[11]泉邸

昭和13年(1938年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

中区上幟町

1:48

「泉邸」は回遊式日本庭園「縮景園」の別称。江戸時代に藩主浅野家の別邸として作られ、大正2年から市民にも開放された。昭和15年、浅野家が広島県に寄付、さらに一般に親しまれるようになった。この映像にはその縮景園の池の鯉や植物、池の中央の虹跨橋、くつろぐ人々などが撮影されている。

[12]広島湾と戦艦見学会

昭和3年(1928年)ころ 撮影:上西寛之助氏 提供:上西功一氏 / 広島平和記念資料館

広島湾海上

2:46

広島湾には大規模な海上輸送港として明治22年(1889年)に完成した宇品港(現広島港)などがあり、日清戦争・日露戦争を経て多くの兵士が出征した海の道でもあった。この映像では、昭和初期の広島湾において様々な船舶が行き交う様子を見ることができる。後半には「扶桑」と思われる戦艦の見学会に乗船する人々なども撮影され、湾上には戦艦「長門」や樅型駆逐艦「栗」なども航行。戦艦「長門」は戦後ビキニ環礁での水爆実験でアメリカに使用され、沈没した。背後に写る宮島や似島などの形から、五日市、廿日市から大野付近の海域などで撮影されたことがわかる。

[13]広島市立第一高等小学校

昭和12年(1937年)ころ 撮影:横山守登氏 提供:一高会

南区段原山崎町

2:57

広島市立第一高等小学校は昭和7年(1932年)、卒業後すぐに間に合う職業教育を第一目標に設立、男子は工業教育重視で、校内には木工室、木工機械室、金工機械室、板金室、製図室、鍛金室印刷室の教室を用意、商業教育としては商業実習室、簿記室、珠算室などの教室があった。女子に対しては、和裁室、洋裁室、茶道室、華道室、割烹室、洗濯室を設けた。昭和12年(1937年)に開校5年記念誌が発行されており、この映像は同時期に記録として撮影された可能性がある。第一高等小学校の校舎は、戦後も段原中学校の校舎として、平成23年(2011年)3月まで、一部が使われていた。
参考資料:「碑」 一高会原爆慰霊碑建設委員会 1991年
協力:一高会(第一高等小学校同窓会)

[30]「観音グランド大競馬」より

昭和2年(1927年) 撮影:藤井重一氏

広島市西区南観音

1:06

観音グラウンドは大正8年(1927年)に開設、木製スタンドを備え野球も行なわれていたという。昭和2年(1927年)に公設競馬場が安佐郡深川村(現広島市安佐北区深川)が観音グラウンドに移転し、ここで広島競馬が行なわれるようになった。
映像には競馬が始まった年の賑わいの様子が記録されている。しかし敷地が狭いことなどから、昭和6年(1931年)、広島競馬はわずか4年で宇品町の中国グラウンドに移転し、観音グラウンド跡地は、現在観音中学校の敷地となっている。
参考資料:「広島の競馬場」 広島市郷土資料館 2010年

[36]えびす講のにぎわい

昭和12年(1937年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

広島市中区本通、中島町

2:32

えびす講(胡子大祭)は400年続く広島市三大祭りの一つで、商売繁盛などを願って毎年11月に開催されている。期間中は周囲の商店街総出で売出しが行なわれ、映像の中にも「誓文払い」(バーゲンセール)の文字が見える。当時バーゲンセールは今のように一年中あるわけではなく、えびす講の時期は市民にとって重要な買物シーズンであった。
映像にある生地販売店は、本通り商店街にあった商店で、向い側に映る三井銀行広島支店は、広島アンデルセンとして長く親しまれた。
またこの映像には、今は平和公園として跡形も残らない、中島本通りの賑わいも撮影されている。

[37]光道小学校

昭和8年~13年(1933年~1938年) 撮影:中野代吉氏

広島市中区猫屋町

2:58

光道小学校は、幼稚園を併設した1学年1学級(定員40人)、男女共学という先進的な教育を行なっている私立学校だった。映像にある3階建てのモダンな校舎は大正13年(1924年)竣工、神戸以西では最初の鉄筋コンクリート校舎だった。
子供たちを光道小学校に通わせていた撮影者は、校内の撮影を引き受け、運動会などの様々な行事や日常の風景を撮影し、折りに触れ、講堂で暗幕をかけ上映会もしていたという。この作品は、息子の2年生から6年生までの学校生活をダイジェストにまとめており、総尺は5分45秒。
光道小学校は、原爆により、学校を支援してきた地域一帯が壊滅したため、昭和20年(1945年)11月廃校となった。
参考資料:「ヒロシマの被曝建造物は語る」 広島平和記念資料館 1996年

[38]皇太子誕生奉祝でにぎわう広島市中心部

昭和9年(1934年) 撮影:福市繁雄氏/広島平和記念資料館

広島市中区胡町ほか

1:48

昭和8年(1933年)、昭和天皇初めての皇子が誕生し、翌年は日本各地で奉祝行事が行われた。この映像は広島市中心部の奉祝行事をとらえたもので、仮装パレードや踊り、賑わう本通り商店街、福屋百貨店旧館前を通る花電車などが当時の祝福の熱気を伝えている。現存する福屋新館の建物は当時まだ建築されていない。

[43]本通りと袋町周辺

昭和13年(1938年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

広島市中区本通など

1:35

初めのカットは本通り交差点の東から西を撮影。反対側から撮影したカットもある。
本通り交差点から南を撮影したカットで電車道にせり出す黒い影は国泰寺の大クスノキ。国の天然記念物で大切に扱われ、境内の外に張り出した根を保護するため、歩道は盛り上げ、電車軌道も根を避け湾曲して敷設された。クスノキの手前の建物は日本銀行広島支店で、現存する被爆建物である。クスノキは原爆で焼失、焼け残った根は戦後撤去された。
和風の門は、昭和10年(1935年)に竣工した山陽記念館の入り口。江戸時代の学者、頼山陽が脱藩の罪で幽閉され「日本外史」を執筆した居室(昭和11年に国の史跡指定)と資料を展示する記念館のカットがある。居室は原爆で焼失、コンクリート造りの記念館も大破し展示品は内部火災で焼失した。現在は頼山陽史跡資料館として再建されている。
参考資料:「ヒロシマの被爆建造物は語る」 広島平和記念資料館 1996年、RCCニュース 2008/07/25放送より

[44]三滝寺ハイキング

昭和13年(1938年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

広島市西区三滝山

2:12

映像には国鉄可部線三滝駅から三滝寺に続く道を歩き、三滝寺の石段を上がり、一番上の幽明滝周辺で弁当を食べる団体の姿が収められている。ハイキング参加者の話では、当時は本通り町内で大人も子どもも一緒に遊ぶ機会があり、比治山、宮島などによく出かけていた、このフィルムは夏に三滝へ行った集まりを撮影したもので、険しい山道を登って行った記憶があるという。

[45]本通りでのラジオ体操

昭和15年(1940年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

広島市中区本通

1:04

本通りは江戸時代から街道の一部で、大正以降は繁華街の中島と新天地を結ぶ通りとして賑わいを深めていった。
ラジオ体操をする子供たちの後ろに映る建物は、大正14年(1925年)に竣工した三井銀行広島支店。本通りから約4.5mセットバックして建てられ、戦後は広島アンデルセンとして使用された。左手には、陶器の老舗、渡部陶苑の看板も見える。
三井銀行のセットバックした空地は、周辺に住む当時の子どもたちにとって格好の遊び場でもあった。撮影者のフィルムには、このラジオ体操のほかにも、空き地で縄跳びや羽根つきをする子供たちの姿がある。
参考資料:「ヒロシマの被爆建造物は語る」 広島平和記念資料館 1996年、RCCニュース 2008/07/25放送より

[46]元安橋周辺

昭和2年(1927年)ころ 撮影:上西寛之助氏 提供:上西功一氏/広島平和記念資料館

広島市中区大手町

0:58

人通りの多い元安橋。鈴蘭灯の華やかな本通り商店街。元安橋東詰から細工町方面の本通り(3つ玉の鈴蘭灯)。本通りを走る消防車。よけて停まる自転車。ボーイスカウトらしきグループ。
これらは昭和2年(1927年)暮れまたは翌年に撮影されたもので、当時の本通り商店街や元安橋の賑わいが伝わってくる。
撮影者は広島県出身のカナダ移民で、1927年から2年間、日本に里帰りしていた。このフィルムはカナダに帰国後同胞者に見せるため、広島の様子を撮影したものと思われる。

[47]招魂祭

昭和3年(1928年) 撮影:上西寛之助氏 提供:上西功一氏/広島平和記念資料館

広島市中区本通など

1:46

初めの映像は広島県商品陳列所(産業奨励館)。次の映像は紙屋町交差点を南から望んだもので、交差点内にある丸屋根の建物はポイント操作員詰所兼乗客の待合所。電車通り沿いの商店に横縞の幕が張ってあるのは祭りのためと思われる。
その祭りは広島招魂祭で、毎年春か秋に西練兵場(現紙屋町交差点北側一帯)で行われ、戦前の広島市民が楽しみにしていた祭りの一つだった。
映像は招魂祭中に行われたと思われる第5師団の行進へと続く。歩兵、騎兵の行進の後、初期の戦車らしき映像も見える。
参考資料:「大正時代の広島」 広島市郷土資料館 2007年、中国新聞 2011/01/23発行

[50]八丁堀周辺

昭和15年(1940年)ころ 撮影:松浦貞美氏 提供:松浦功氏/広島市公文書館

広島市中区胡町

0:25

前半は広島市を代表する繁華街の一つである八丁堀。被爆建物として今も使用されている福屋デパートの外観は現在とほとんど同じで、その前を路面電車や自動車そして馬車が走る。映像内の看板に「奉祝大展覧」とあることから、撮影時期は紀元2600年を記念した行事が多く行われた昭和15年(1940年)ころと思われる。
後半は当時路面電車の白島線が敷設されていた京口門通りから福屋方面を撮影。白島線は戦後、東側の白島通りに移設された。
参考資料:2013/04/29 RCCニュースより

[55]饒津神社(にぎつじんじゃ)ほか

昭和15年(1940年)ころ 撮影:松浦貞美氏 提供:松浦功氏/広島市公文書館

広島市東区二葉の里

0:50

広島駅近くの饒津神社を散策する家族の様子が撮影されている。
饒津神社は江戸時代に藩主浅野家が祖先追悼の位牌堂を建立したのが始まりで、明治になって饒津神社と改称しこの映像が撮影された頃には桜の名所としても市民に親しまれていた。
原爆により本殿ほかすべての木造建築物が焼失したが、徐々に再建、現在は戦前と同じ姿を模して復元されている。
後半にある太鼓橋以降の映像は、饒津神社近くの鶴羽根神社と思われる。
参考資料:饒津神社公式ウェブサイト「歴史・由来」 饒津神社 2013年

[56]「広島師団出動風景」より

昭和6年(1931年)12月18日-21日 提供: 秋広六郎氏

広島市南区宇品海岸ほか

2:50

この動画は、昭和6年(1931年)9月に発生した満州事変に対応するため広島を離れ出動する大日本帝国陸軍第五師団の様子を撮影した記録映画で、総尺13分30秒。第五師団は広島県や近接の県出身者で編成され、広島市内に多くの軍事関連施設が置かれた。
参考資料:「ヒロシマの被爆建造物は語る」 広島平和記念資料館 1996年

[57]「第九師団の出兵記録 昭和七年」より

昭和7年(1932年)2月6日-10日 提供:石川県立歴史博物館

広島市南区宇品海岸ほか

1:29

この動画は、昭和7年(1932年)1月に発生した第1次上海事変への対応で派遣される大日本帝国陸軍第九師団が金沢から広島まで移動し、宇品港を出発する様子を撮影した記録映画で、総尺は6分15秒。第九師団は石川県とその隣接県の兵士で構成され、金沢市内に多くの関連施設が置かれた。 師団が渡る京橋は、昭和2年に国道橋として完成した鋼橋。原爆に耐え被爆者の避難路や救援活動の通り道となった。
参考資料:「ヒロシマの被爆建造物は語る」 広島平和記念資料館 1996年

[58]「昭和三年九月陸軍検疫状況」より

昭和3年(1928年)9月 提供:中国放送

広島市南区似島町

2:52

宇品港4km沖合にある似島に設置された検疫所の陸軍兵士帰還業務を紹介した記録映画で、総尺は28分。
似島の検疫所は1895年(明治28年)、日清戦争から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、国内3ヵ所の一つとして設置された。一日に数千人の規模で検疫可能な大規模施設であった。
原爆投下直後、検疫所には臨時野戦病院が開設されたが、患者数と惨状は現場の予想をはるかに超えるもので、被災者と家族や知人を探す人々であふれた。
参考資料:ウェブサイト「平成15年度第2回企画展」 平和記念資料館 2004年

[63]雪の本通り

昭和15年(1940年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

広島市中区本通

1:10

雪の降る広島市本通を撮影したもの。本通りは広島市の商業拠点、紙屋町と八丁堀を結ぶ長さ570mの商店街。大正時代から繁華街として賑わいを増し、現在もおよそ200の店舗が営業している。映像にある渡部銅器店(現渡部陶苑)は江戸時代から続く老舗で、浅野家と共に広島に入り、江戸期は刀剣を扱っていた。明治以降は金物の生活用品が中心になり、銅の火鉢や花瓶、仏具などを販売した。戦後は陶器の需要が増し、「渡部陶苑」と表記するようになった。現在この場所には7階建ての「本通ヒルズ」が立ち、渡部陶苑は同ビルの3階に移転している。
協力:渡部陶苑

[64]比治山御便殿ほか

昭和初期 撮影:中野代吉氏

広島市南区比治山公園ほか

1:14

広島市を見渡せる小高い比治山にあった御便殿は、日清戦争時に西練兵場(現広島市中区基町周辺)に設けられた明治天皇の休憩所を移設したもので、広島城内の大本営跡とともに広島の観光名所の一つであった。映像にある瓦葺の大きな屋根は風雨を防ぐ覆いの建物で、御便殿はその中にあり、明治天皇の御真影、椅子や敷物などが収められていた。周囲には神馬の銅像や大鳥居、石灯籠などがあった。御便殿は原爆で倒壊、現在は石灯籠だけが場所を移転して残り、広場として整備されている。映像には、撮影者の住まいがあった鍛冶屋町(現中区本川町)、かごめかごめや羽根つきをする親族の子どもたち、御便殿、広島東照宮、鶴羽根神社がある。晴れ着や遊びなどから撮影は正月ごろではないかと思われる。
協力:「大正時代の広島」広島市郷土資料館 2007年

[66]加藤友三郎銅像除幕式

昭和10年(1935年)11月3日 提供:加藤健太郎氏

広島市南区比治山公園

1:14

加藤友三郎は広島市出身の海軍軍人で、日露戦争の日本海海戦に連合艦隊の参謀長として参加。第一次大戦後は、ワシントン海軍軍縮条約を締結させ、日本の財政危機を救ったとされている。その後、広島県出身者として初の総理大臣に就任したが、在任中に病死した。
比治山公園に軍礼装姿、等身の約2倍で建てられた銅像の除幕式には数千人が集まり、祝賀会も催された。熱狂のうちに建設された加藤総理の銅像は、第2次大戦中の金属回収令で兵器を作るために供出され、今は台座だけが残っている。
参考資料:RCCニュース 2013/10/19放送より

[68]「比治山の桜」より

昭和初期 撮影:橘高寿人氏

広島市南区比治山公園

0:59

比治山は標高約70mの丘で、広島市内を一望することが出来た。明治時代中期までは国有林であったが、明治36年(1903年)に公園として桜を植樹し整備、一般に公開された。1910年に日清戦争で広島に滞在していた明治天皇の在所(御便殿)が比治山に移築されたことで広島の名所として知られるようになり、春の花見には数万の人が押し寄せるようになったという。 現在も比治山公園は、広島市内では有数のお花見スポットである。
参考資料:「広島市郷土資料館企画展 お花見」広島市市民局文化スポーツ部文化財課 2010年

[71]長寿園の桜並木

昭和2年(1927年)ころ 撮影:上西寛之助氏 提供:上西功一氏 / 広島平和記念資料館

広島市中区白島北町ほか

2:28

戦前、太田川の河畔にあった長寿園は、比治山公園と並んで広島市内の桜の名所であった。明治43年(1910年)に、商人の村上長次郎氏が土手に桜を植え、大正5年(1916年)に「長寿園」と名付けて一般公開した。対岸の大芝公園の桜も咲き誇り、見事な眺めであったという。戦後は次第に樹勢が衰え、地区には高層アパートが次々と建築、桜の名所長寿園は姿を消した。 現在周囲の河畔には新たに桜が植樹され、再び市民の目を楽しませている。 後半の単線鉄道と蒸気機関車は、私鉄「広島電気」(現JR可部線)と思われる。 そして最後に収録されている完成前の広島市役所は、昭和3年(1928年)3月に竣工している。
参考資料:「広島市郷土資料館企画展 お花見」広島市市民局文化スポーツ部文化財課 2010年 2010年

[72]「桜花満開」 より

昭和8年(1933年)4月12日 撮影:中野代吉氏

広島市中区白島北町ほか

1:30

広島市内の桜名所を行脚した映像。家族が自宅を出発し、満開の桜が咲き誇る比治山公園、長寿園、饒津(にぎつ)公園などを訪れている。当時を知る親族によると、撮影者は、病で花見に行けない家族に後日上映して見せるため、あちこちの桜名所を撮影したという。

[81]産業奨励館周辺

昭和13年(1938年)ころ 撮影者:吉岡信一 提供:広島市公文書館

広島市中区大手町

1:43

産業奨励館に近い元安川の岸辺には、島しょ部と広島市中心部の水上輸送を担った「番船(ばんせん)」の船着き場があった。川の両岸には、商店や民家、料亭などが川岸にせり出さんばかりに立ち並んでいた。当時子どもだった撮影者の親族は「番船は島からサツマイモやミカンなど食料品を市内に運び、島の人が注文したものを積んで帰っていた」「奨励館には色々なものが陳列してあり、鬼ごっこしたり走り回ったり隠れたり、階段も自由に入れた」と語っている。 RCCニュース2008/07/25放送ほか

[82]袋町小学校運動会

昭和15年(1940年)ころ 撮影:吉岡信一 提供:広島市公文書館

広島市中区袋町

2:16

映像では白く見える鉄筋コンクリートの西校舎は昭和12年(1937年)に竣工、地下1階地上3階、水洗便所やダストシュートを備えた近代的な建物だった。南と北の木造校舎は1945年2月に建物疎開で解体、残った西校舎も8月6日の原爆による爆風と高熱で外郭を残すだけとなったが、市内中心部に残った数少ない建物であったため、数日後には避難場所・救護所となり、壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残された。 西校舎では翌年5月から授業が再開、その後も使用されてきたが、老朽化のため平成12年(2000年)に取り壊しとなった。 建物の一部は壁の伝言と共に「袋町小学校平和資料館」として一般公開されている。 参考資料:「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島平和記念資料館 1996年

[83]相生橋・電車・産業奨励館

昭和8年(1933年)ころ 撮影:中野代吉氏

広島市中区

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昭和7年(1932年)に道路と電車の兼用橋として完成した相生橋は、昭和9年(1934年)に中島地区(現平和公園)の北端に橋桁が伸びT字型になった。しかし昭和14年(1939年)まではその南側に2本の木造橋があった。映像では産業奨励館と共にその木造橋が確認できる。 相生橋を走る電車の奥に見えるレンガ造りの建物は、市内電車が開通した大正元年(1912年)に竣工した櫓下(やぐらのした)変電所。被爆時に隣にあった商工会議所はまだ竣工していない。変電所の建物は原爆により完全に崩壊した。 後半の親子が散策している場所は長寿園付近と思われる。 参考資料:「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島平和記念資料館 1996年

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