ひろしま戦前の風

[14]楽々園遊園地

昭和13年(1938年)1月と4月 撮影:栄花文造氏

佐伯区楽々園

2:57

「楽々園駅」は、広島で初めての遊園地「楽々園」に客を呼び込む目的でつくられた。このあたりには江戸時代に塩田が開かれていたが、その後衰退し廃止。昭和11年、当時宮島線を経営していた広島電鉄の前身、広島瓦斯電軌が、塩田の埋め立て地に遊園地を開設、「楽々園」と名付けた。当時は「遊園地」そのものの概念が珍しく、大いに話題を呼び、お客は遠く島根など県外からもやって来た。園内は、電気自動車、汽車、プール、猿が島などがあって、日常生活とは全く違う夢の別天地。「明日は楽々園」と言われて眠れない子も多かった。子供は勿論大人も充分楽しんだ。戦前の園内は、ゆったりと余裕があり、家族連れが弁当を広げていた。年と共に遊具も増えて賑わったが、昭和46年(1971年)に閉園となった。
参考資料:「ひろしま今昔」(RCC番組1989/11/25放送)より

[15]「可部町付近の名所」より

大正15年(1925年)9月 撮影:藤井重一氏

安佐北区可部町

1:07

可部町に住む撮影者が、周囲の見どころを撮影したもの。可部町の商店街、軽便民間鉄道時代の可部駅、可部線を走る蒸気機関車、船入堀(現在は埋め立てられ明神公園)、高松橋などが撮影されている。可部は河川・陸路とともに交通の拠点として栄えた宿場町で、船入堀は船の係留地だった。
参考資料:「大正時代の広島」 広島市郷土資料館 2007年 
協力:新澤孝重氏

[16]宮島 長浜海水浴

昭和10年(1935年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

廿日市市宮島町

2:33

海水浴は明治時代に健康法の一つとして富裕層を中心に海外から伝わり、次第に一般的なレジャーとして広がった。戦前、宮島町の老舗旅館「岩惣」はプライベートビーチ長浜海水浴場を所有し、宮島口から宮島まで宿泊客を船で送迎していた。映像はその宿泊送迎船、長浜海水浴場で海中滑り台や遊具を楽しむ人々など、宮島の賑わいや当時の避暑ライフを伝えている。
協力:岩惣

[17]音戸の瀬戸と軍艦

昭和4年(1929年)以降 撮影:田部華吉氏

呉市音戸町など

2:19

撮影者が松山から広島へ航路で戻る途中に撮影されたと思われる。映像には、高浜港、ターナー島、出航の様子の後に、音戸の瀬戸、清盛塚、音戸や警固屋、航行中の戦艦や駆逐艦、軽巡洋艦など撮影されている。倉橋島から海に突き出す形の「清盛塚」は、瀬戸内海の重要航路である「音戸の瀬戸」を切り開いた平清盛の功徳をたたえ、1184年に建立されたと伝えられている。

[18]第1回尾道みなと祭

昭和10年(1935年)4月1日~4月3日 撮影:村尾嘉久氏・村尾賢二郎氏

尾道市土堂など

2:19

尾道みなと祭は昭和10年、尾道の発展を願い始まったもので、第1回目は4月1日から5日間、市内で盛大に開催された。この映像はその第1回目を撮影したもので、祝賀式、様々な趣向や仮装で商店街を練り歩く行列などが撮影されている。尾道みなと祭は、昭和12年第3回まで開催されたが、その後は戦局などが考慮され中止、戦後に復活し現在は4月下旬に開催されている。

[19]千光寺公園ドライブ

昭和12年(1937年)ころ 撮影:小川民蔵氏

尾道市東土堂など

2:52

撮影されたころの千光寺公園は、公園敷地を寄付した千光寺付近が賑わいの中心で、桜の名所として知られていた。円形ドーム型の鳥小屋もあった。映像には坂道を上がる自動車、旧展望台(現在の千光寺山頂付近ではなく西寄り=尾道駅寄りにあった)、千光寺、公園の鳥、高台から撮影した尾道水道のほか、休日を楽しむ家族の楽しそうな様子が記録されている。なお、旧展望台は昭和24年ころ建設されたとの記載本もあるが、複数の尾道在住者が、戦前からあったと証言している。

[20]「輝く郷土 御調郡市村」より

昭和12年(1937年)制作 撮影:土肥政男氏 提供:尾道市御調町

尾道市御調町市

2:55

御調郡市村(現尾道市御調町)を紹介した映画「輝く郷土」から抜粋。この映画は市村が村勢を記録するために土肥氏に発注したものと思われ、総尺は8分15秒。当時尾道から市まで開通していた尾道鉄道、洋館の市村郵便局など本通筋の建物、小学校や家畜市場、「広島県上市村農学校」(現県立御調高等学校)、本照寺の池上城主墓所、御調八幡宮など市村の各地が撮影されている。市村は山陰の石見銀山から尾道へ抜ける石見路の宿場町で、明治後も交通の拠点として栄えた。
協力:尾道市役所御調支所

[21]子安丸進水式

昭和6年(1931年)6月15日 撮影:広瀬勇四氏ほか

福山市

1:56

福山市内の海辺で行われたと思われる木造機帆船「子安丸」の進水式から、航行の様子が撮影されている。満艦飾の子安丸、集まった大勢の人々、斧でロープを切り、海に浮かぶ子安丸、さらに芦田川を遡り、田植えのかたわらを航行、川沿いの港町に到着し盛大に歓迎されるまでを記録している。木造機帆船は戦前、近距離用の貨物輸送船として使用されていた。

[22]三歳祝いに宮参り

昭和11年(1936年) 撮影:丸山雷蔵氏

福山市松永町

2:24

沼隈郡松永町(現福山市松永町)に住む撮影者の家族映像。数えで3歳を迎えた幼児を連れ、自宅から徒歩で、近くの潮崎神社と本庄神社で宮参りをする女性たちの様子が撮影されている。

[23]府中町

昭和4年(1929年)4月5日 撮影:広瀬勇四氏ほか

府中市府中町

0:53

撮影者が府中町を訪れたときの映像。高所からの府中町全景、通り過ぎるバイクや車、豊富な水量の芦田川などが撮影されている。

[24]牛馬市の賑わい

昭和15年(1940年)ころ 撮影:池森修三氏

東広島市高屋町白市

1:42

東広島市高屋町の白市地区は城下町として古くから栄え、この映像が撮影されたころは毎年5月の終りに「牛馬市(ぎゅうばいち)」が開かれていた。地区の子ども達が参加する稚児行列、綿菓子や風車、芝居小屋など、賑やかな祭りの様子が紹介されている。映像を見た古老は「サーカスも来て西から東から色んな人が来た。勉強にならんかった。ドンドロドンドロ音がする。先生の話も聞こえなんだ」と話している。
参考資料:RCCニュース 2005/06/16放送より

[25]帝釈峡

昭和15年(1940年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

庄原市東城町

2:36

帝釈峡は現在の庄原市東城町から神石郡神石高原町にまたがる峡谷で、古くから名勝地、信仰の対象地であった。大正12年(1923年)に「史跡名勝天然記念物保存法」により「国の名勝」に指定された。この映像は広島市在住の撮影者が、現在も続く老舗旅館「角屋」や旅館前の太鼓橋、「自動車乗り場」「賽の河原」「名勝指定地域 内務省」などの看板、ボンネットバス、遊覧船などを撮影しており、名勝指定後、観光地として賑わいを深めた帝釈峡の様子がうかがわれる。
参考資料:東城町史第六巻 東城町 1997年

[26]「三段峡探勝記念」より

昭和2年(1927年)6月14日~6月17日 撮影:藤井重一氏

山県郡安芸太田町

2:43

現在、山県郡安芸太田町に位置する峡谷の三段峡は、名勝として世に紹介された大正の中ごろから探勝者(観光客)が年々増加、旅館も建ち、整備が進み、大正14年(1925年)に「史跡名勝天然記念物保存法」により「国の名勝」に指定された。この映像はその指定から2年後に撮影されたもので、つり橋、渡し舟、猿飛岩、豊富な水量の二段の滝など、探勝地として歩み始めた初期の三段峡の様子を伝えている。
参考資料:「とごうち 写真で見るあゆみ」 戸河内町 1986年

[27]「鞆への遠乗り乗馬会」より

昭和初期 撮影:橘高寿人氏

福山市鞆町

2:55

昭和初期、機材が高価であるため、動画撮影は限られた人の趣味だった。そんな時代、福山市の名士たちの間で、フランス生まれの小型ムービーカメラ「パテベビー」が爆発的な人気を呼んだ。同好会も生まれ、共同でアマチュア映画も作るほど。そのため福山市周辺には、まとまった昭和初期映像が現存している。
この作品は、「パテベビー」の販売代理店主が撮影したもので、当時を知る人によると、福山市から鞆への馬の遠乗りは日曜ごとに行なわれ、映像中の騎乗者は、軍や警察、福山市の幹部たち。一行は馬を駆って福山市草戸町の「銭取橋」(現草戸大橋)を通り、沼名前(ぬなくま)神社に参拝、鞆の町並みを歩いて「常盤(ときわ)館」(場所は現在の鞆シーサイドホテル)でくつろいでいる。
参考資料:RCCニュース 1995/08/15放送より

[28]雪の福山城ほか

昭和初期 提供:福山城博物館

福山市丸之内ほか

2:21

この映像フィルムは昭和40年代に福山城博物館に寄贈されたもので、撮影者は27.と同じく昭和初期のパテベビー愛好グループ員と思われる。
高台の福山城からぐるりとカメラを回し、福山駅舎、煙突のある福島紡績工場など戦前の市民に馴染みある建物をとらえている。また雪の日に撮影された福山城天守閣は昭和6年に国宝に指定され、周辺は福山市民憩いの場所となっていた。映像の後半にある「カフェ・スター」は、福山駅前の店で、当時活動写真の愛好家たちが集まり、熱い映像談義を交わす場所でもあったという。
参考資料:RCCニュース 1995/08/15放送より

[29]井の口海岸

大正15年(1926年)11月 撮影:藤井重一氏

広島市西区井口明神

0:59

井の口海岸は、明治時代末まで小己斐島(こごいじま)の岩礁が海辺に浮かぶ、絵葉書になるほどの景勝地で、「男明神島」と「女明神島」の夫婦島として知られていた。
しかし大正13年(1924年)に国鉄山陽本線と平行する形で広島瓦斯電軌(現広島電鉄)宮島線が区間開通、更に昭和8年(1933年)海側に観光道路が開通し、女明神島は姿を消す。この映像は、女明神島が完全に姿を消す直前の夫婦岩時代と、山陽本線を走る蒸気機関車、宮島線を走るチンチン電車をとらえている。
「男明神島」の方も、1982年に完成した大規模な周辺の埋立事業により島ではなくなり、西部埋立第二公園内に「小己斐島」と表記、保存されている。海ははるか1㎞先となった。
参考資料:「広島県の歴史絵はがきと観光資料」 広島県立文書館 2010年

[31]自宅での大道芸人

昭和5年(1930年)ころ 撮影:田部華吉氏

庄原市東本町

1:50

撮影者の親族の話では、戦前は正月などに自宅に大道芸人を招き、獅子舞などを楽しむ家庭が多く、「今の子供たちはそのようなものを見る機会がなく残念」と語っていた。
映像では獅子舞のほか、日本古来の球や棍棒を使ったお手玉、軽業や曲芸などの大道芸が披露されている。
参考資料:RCCニュース 2001/10/30放送より

[32]廿日市駅など

昭和13年(1938年) 撮影:栄花文造氏

廿日市市廿日市

2:32

冒頭にある「廿日市信用組合」は明治43年に設立、町域で金融事業を行なっていた。次に映る「はつかいちえき」は広島瓦斯電軌(現広島電鉄)の電車駅で、駅舎は大正13年(1924年)竣工、広島電鉄の電車駅では唯一現存する木造の駅舎だったが、駅前整備事業などのため、2012年に解体された。
参考資料:「廿日市町史 通史編(下)」 廿日市町 1988年

[33]安芸国分寺跡にサイクリング

昭和15年(1940年)ころ 撮影:池森修三氏

東広島市西条町

2:00

国分寺は奈良時代に聖武天皇が国家鎮護を目的に全国に建立したもので、安芸の国(広島県西部)の国分寺は、昭和7年(1932年)から発掘調査が始まり、賀茂郡西条町に存在したことが確認された。昭和11年(1936年)、塔跡のみが史跡指定された。映像には、史跡指定により整備が終わった国分寺跡(塔跡)を自転車で訪れる様子が撮影されている。
戦後は1966年から大規模な発掘調査が行なわれ、現在は伽藍跡なども含め広範囲が史跡指定されている。

[34]「銀嶺の魅惑 その一 吾妻山」より

昭和12年(1937年)12月26日 撮影:金田民夫氏 提供:広島平和記念資料館

庄原市比和町

2:24

明治時代末に日本初の民間スキー場が山形県に誕生し、積雪量の多い地域でスキーへの関心が高まっていった。
吾妻山スキー場は昭和2年(1927年)に誕生、ゲレンデは初心者向けからベテラン向けまでと多様で、夜間スキーも楽しめる屋外照明施設もあった。昭和16年(1941年)ころまでは盛況であったが、戦局の悪化でスキーヤーが激減し閉鎖された。戦後は営業を再開、スキーの大衆化とともに再び賑わいを見せたが、現在は閉鎖されている。
映像には、広島市内の私立男子校である修道中学校スキー講習会の様子がとらえられている。
参考資料:「比和町誌」 比和町 1980年

[35]「恐羅漢山」より

昭和16年(1941年) 撮影:金田民夫氏 提供:広島平和記念資料館

山県郡安芸太田町

1:40

県内最高峰の恐羅漢山(1346m)にある恐羅漢スキー場は、34.の吾妻山スキー場と同じく昭和初期に開発された。当時は日本における最南端の本格的スキー場で、昭和11年(1936年)の第1回西日本滑降大会ほか、戦前は4回の県選手権競技大会が行なわれた。
映像には、正月休みを利用し、恐羅漢山の林の中で山スキーを楽しむ男女の姿、そして県内では珍しい樹氷の様子などがとらえられている。
現在スキー場周辺は、キャンプ場やトレッキングコースなどが整備され、四季を通じてアウトドアスポーツを楽しめる場所になっている。
参考資料:「とごうち 写真で見るあゆみ」 戸河内町 1986年

[39]盈進商業学校の授業

昭和10年(1935年)ころ 撮影:橘高寿人氏

福山市三吉町

2:30

盈進商業学校(現盈進中学高等学校)は明治37年(1904年)に開校した私立男子校。昭和10年(1935年)、福山市三吉町に新校舎が竣工し移転、フィルムはそのころに撮影されたと思われる。映像には校舎、校庭で行われた剣道、柔道、分列式、鉄棒、ハードル、そして珠算やタイプライター授業などがある。

[40]可部尋常高等小学校の秋季運動会

大正15年(1926年)10月16日 撮影:藤井重一氏

安佐北区可部町

2:41

可部小学校は明治7年(1874年)に「成美舎」として開校。このフィルムが撮影された大正15年度には、2年制高等小学校を併設する8学年8クラス、約400人が在籍する学校だった。
可部地域では明治20年(1887年)に9小学校の児童が参加した連合運動会が始まり、徐々に数校または単独校での開催に変化した。運動会は地域住民にとっても大きな娯楽となっていった。
参考資料:「可部町史」 広島市合併町町史刊行会 1976年

[41]「青い目の人形を迎へる」より

昭和2年(1927年) 撮影:藤井重一氏

安佐北区可部町

1:13

昭和2年、日米親善活動の一環として、アメリカから「青い目の人形」およそ12,000体が日本に贈られ、日本からも返礼として日本人形が贈られた。「青い目の人形」は全国の小学校などに配られた。この映像は可部小学校への人形贈呈に関連した行事と思われる。
その後「青い目の人形」は、太平洋戦争時に敵国の人形として処分されるなど、多くが失われた。可部小学校の人形も現存は確認されていない。
参考資料:RCCニュース 1989/03/07放送より

[42]戦没者の野辺送りと合同慰霊祭

昭和15年(1940年)ころ 撮影:池森修三氏

東広島市高屋町

2:34

日中戦争が長期化するにつれ戦死者が増大、戦死者が白い布に包まれた「箱」となって戻る光景が各地で繰り返されるようになった。
首から白いものを下げた男の子と、横を歩く喪服女性。2人を先頭に歩く多くの人。戦死者は少年の父親だったのかもしれない。
また遺骨を抱いた人々が集まるのは、白市地区の養国寺。当時を知る関係者によると、これは戦死者の遺骨を寺に集めて行った合同葬儀で、初めは盛大に行われたが、戦争が激しくなり、余裕がなくなり、簡素化していったという。
参考資料:RCCニュース  2005/06/16放送より

[48]「五日市 於 中島亭」より

昭和11年(1936年)5月17日 撮影:中野代吉氏

広島市佐伯区海老山(かいろうやま)町

1:52

明治30年(1887年)ころ、海老山周辺に五日市海水浴場が開設、山陽鉄道開通後は潮湯、蒸し風呂、旅館や料亭も出現し多くの行楽客で賑わった。映像にある「中島亭」は、大正期に開設された和洋料理の料亭兼旅館である。
当時を知る人によると、楽々園が出来るまでは、広島市中心部から遠くに遊びに行くと言えば、海老山の公園か、地御前の海水浴公園であったという。
戦後、海老山は公園としてさらに整備され、四季を通じ地域の憩いの場所になっている。
参考資料:「広島県の歴史絵はがきと観光資料」 広島県立文書館 2010年

[49]妹背の滝で水遊び

昭和15年(1940年)ころ 撮影:松浦貞美氏 提供:松浦功氏/広島市公文書館

廿日市市大野

0:53

妹背の滝はJR山陽本線大野浦駅から徒歩で約30分の距離にある。下方の雌滝は50m、上方の太い雄滝は30mの落差がある豪快な滝で、現在でも都市部近郊でありながら水遊びが出来る行楽地である。 映像には、滝での水遊び、帰りの田舎道、おそらく山陽線と路面電車を乗り継いで帰ったのであろう、電停に近い京口門通りを自宅に向かって歩く家族の様子が写っている。

[51]八木梅林と可部の川下り

昭和15年(1940年)ころ 撮影:松浦貞美氏 提供:松浦功氏/広島市公文書館

広島市安佐南区八木ほか

1:27

八木梅林は当時広島市など周辺の人々にとって人気行楽地の一つで、他の市民が撮影した戦前フィルムにもたびたび登場している。
映像には安佐北区付近で川下りを楽しむ様子もある。大きな帆を張った川船や下流に材木を送るいかだなども。川船の旗には「翠香園」の文字。「翠香園」は現在も可部町内にある日本料理店で、関係者は「当時は今ほど交通の便が良くなく、帰りの客は船で相生橋まで送った。船は翌日の午前中に風を利用して戻ってきた。」と語っている。
参考資料:2013/04/29 RCCニュースより

[52]夏の鞆・福山・尾道

昭和15年(1940年)ころ 撮影:松浦貞美氏 提供:松浦功氏/広島市公文書館

福山市鞆町

1:05

仙酔島と鞆の浦の俯瞰、ラッキョ汽車と呼ばれ親しまれた鞆鉄道の機関車、福山城、尾道の坂道、千光寺山から尾道水道を眺める様子などが撮影されている。
鞆の浦は古くから「潮待ち港」として航海の重要地だった。また寄航した朝鮮通信使が風光明媚な景観に絶賛の書を残すなど、景勝地としても知られていた。その後航海様式の変化などから港としての重要性は薄らいだが、名勝としての評価は続いた。昭和6年(1931年)の国立公園法で最初に指定された地域の一つで、切手にもなっている。

[53]山陽本線で福山へ

昭和12年(1937年)ころ 撮影:小川民蔵氏

福山市三之丸町ほか

2:52

国鉄山陽本線で松永駅を通過し福山駅で下車、福山城と草戸大橋を散策する家族の様子が撮影されている。 福山駅は福山城三の丸付近を整備し、明治時代に私鉄山陽鉄道の停車場として開業した。その後山陽鉄道は国有化、鞆軽便鉄道や両備軽便鉄道の接続を経て、手狭になった駅舎は昭和5年(1930年)に一新された。福山城側の駅裏には貨物倉庫が立ち並び、機関庫も誘致、福山駅は備後地方の流通拠点となった。
福山城は1619年に築城。明治以後は公園として整備され、この動画が撮影された頃には、天守閣、伏見櫓、筋鉄御門が国宝に指定されていた。しかし天守閣は昭和20年の空襲で焼失、戦後再建され、現在は博物館となっている。
映像にある大きな銅像は、大正11年(1922年)に建立された安倍正弘像と思われるが現在は残っていない。現在公園内には、戦後に別途建立された安倍正弘像がある。
後半の草戸大橋(銭取橋)は福山駅から約2㎞、昭和7年(1932年)に木造から鉄筋コンクリートに建て替えられた。近くには初詣スポットとして賑わう草戸稲荷神社などがある。
参考資料:「福山市史 下巻」 福山市史編纂会 1978年

[54]夏の楽々園

昭和15年(1940年)ころ 撮影:吉岡信一氏 提供:広島市公文書館

広島市佐伯区楽々園

2:28

楽々園遊園地は1936年(昭和11年)、広島瓦斯軌道が開発した住宅地の中央に「中国地方の宝塚」と称して開園した。「園内には子どもや家族連れを対象とした遊具、遊戯場、売店、プール、休憩所などを設置し終日楽しく過ごすことができ、夏季には遊園地南側の地先海面に海水浴場を開設した。」
フィルムには、水泳前の集団準備体操、プールではしゃぐ人々、休憩所でくつろぐ大人たち、そして水着姿でゴーカートなど遊具を楽しむ子供たちが撮影されている。
参考資料:「五日市町誌(中巻)」 五日市町誌編集委員会 1979年

[59]「三郎の瀧」より

昭和8年(1933年)ころ 提供:前川浩氏

府中市府中町

0:44

約30mの滑り滝は自然が作ったウォータースライダー。大人も子供も岩の斜面をジェットコースターさながらに滑り降り楽しめる。中には勢い良く滑り過ぎてパンツを破ってしまう人もあるとか。周辺は滝すべりの夏だけでなく、秋には紅葉スポットとして広島県内そして県外から多くの観光客が訪れる。
この地で滝すべりが始まったのは、昭和の始め頃と言われている。動画には、褌姿などのコスチュームで滝すべりを楽しむ人々の姿が収められている。
参考資料:RCCニュース 1992/09/10放送

[60]正月の互礼会

昭和初期 撮影:橘高寿人氏

福山市三之丸町

1:00

福山城域(福山公園)で昭和初期に行われていた正月互礼会は、福山市の主催行事だった。当時を知る人は「(互礼会は)いちいち各家を歩かないで、福山城でお互いが祝おうと始められた」と語っている。映像には初代福山市長で上水道建設に力を注いだ阿武(あんの)信一氏の姿もある。
参考資料RCCニュース 1995/08/17放送

[61]福山とんどの子供たち

昭和4年(1929年)ころ 撮影:広瀬勇四氏ほか

福山市横尾町

1:28

「福山とんど祭り」は、1622年、水野勝成の福山城築城後、城下30町と鞆6町の町衆が飾りをつけた計36本の「とんど」を担ぎ、はやし音頭とともに練り歩くという、城下町福山をあげての正月行事であった。廃藩置県後も規模を縮小して続けられていたが、昭和3年の昭和天皇即位を祝った年以後は全町あげて繰り出すことはなくなったようだ。
参考資料:「備陽史探訪23号」備陽史探訪の会 1985年

[62]「積雪一尺五寸」より

昭和元年(1926年)12月25日 撮影:藤井重一氏

広島市安佐北区可部町

0:55

可部町は山陰と山陽を結ぶ要衝の地であり、古来より産業・文化・交通・経済の中心地として栄え、多くの商業従事者を抱えていた。映像の最初にある町屋は肥料店を営んでいた撮影者の住宅で、江戸時代後期から末期の形式と言われている。可部町には現在も古い町屋や寺社、記念碑などが多く残り、散策イベントなども開催されている。
参考資料:「可部町史」広島市合併町町史刊行会 1976年、「広島市近世近代建築物調査報告」広島市教育委員会 1989年

[65]宮島観光

昭和15年(1940年)2月-3月 撮影:松浦貞美氏 提供:松浦功氏/広島市公文書館

廿日市市宮島町

1:00

宮島は神の宿る島、日本三景のひとつとして、今も昔も多くの人々に愛され、戦前の市民フィルムにも度々登場する。 この映像は、広島市内に住む撮影者が親族と共に冬に訪れた宮島(厳島)での様子をとらえたもの。名前の通り紅葉の名所である紅葉谷公園や、大鳥居や厳島神社などを見渡せ宮島で最も展望の良い場所の一つである平松公園などを散策している。

[67]福山城公園のヨーヨー大会

昭和初期 撮影:橘高寿人氏

福山市三之丸町

2:16

当時を知る関係者によると、福山城周辺はテニスコートやプールがあり、桜の頃は賑やかに市民が集っていた。フィルムにある桜の園は、田中八九郎氏(※福山製紙創業者)の個人所有で、花見の季節は一般に開放していたという。
参考資料:RCCニュース 1995/08/17放送

[69]千光寺公園の花見

昭和10年(1935年)ころ 撮影:村尾嘉久氏・村尾賢二郎氏

尾道市土堂など

1:28

千光寺公園は、明治時代後期に千光寺住職など有志の呼びかけや協力で公園として整備、戦前から桜の名所として知られ、現在は尾道市が管理している。 昭和10年(1935年)および昭和12年(1937年)4月に尾道みなと祭りが行われており、後半の映像は行事に関連した花見のパレードかもしれない。 現在千光寺公園は「日本さくら名所百選」の一つに選ばれており、春には多くの花見客が訪れる。
参考資料:RCCニュース 1993/04/08放送
協力:千光寺

[70]桜と尾道鉄道

昭和12年(1937年)ころ 撮影:小川民蔵氏

尾道市土堂など

2:26

桜満開の季節、尾道鉄道の女学校前駅(尾道市栗原東)から市駅(同御調町)まで行き、散る桜花の下でお弁当を食べ、散策する家族たちをとらえた映像。 尾道駅と御調町を結んだ尾道鉄道は、尾道から県の北部を連絡し、更には島根県までつなぐ…という壮大な計画のもと大正末期に開業。この地域の住民にとっては唯一の足となっていたが、戦後はバス路線が伸びたために乗客を奪われ、昭和39年(1964年)に廃止となった。
2000/10/08 RCCテレビ「20世紀広島あのとき」

[73]山野峡

昭和10年(1935年)ころ 撮影:橘高寿人氏

福山市山野町

1:39

山野峡(やまのきょう)は、福山市の中心部からおよそ30㎞北の岡山県境にあり、落差60メートルの竜頭の滝(りゅうずのたき)などで知られている。滝壺付近は真夏でも涼を求めて多くの人が訪れる。秋には紅葉が美しく、竜頭の滝の他にも四段の滝など景勝地が多い。 映像には、車で山野峡を訪れ、滝近くの温泉施設を出て、散策し水遊びをする人々の楽しそうな様子がとらえられている。

[74]プールでの水泳競技

昭和10年(1935年)ころ 撮影:橘高寿人氏

福山市丸之内

1:35

冒頭の看板に「藤井氏表彰祝賀水泳競技大会」とある。藤井氏とは、盈進商業学校(現・盈進学園)創立者の藤井曹太郎氏と思われる。撮影者のフィルムにはこの映像の他にも「盈進商業高校創立者、藤井会長体育賞受賞記念陸上競技」と記された映像がある。 競技が行われた場所は、昭和3年(1928年)に開場した福山市営プール(現・丸之内公園水泳場)と思われる。 参考資料:「福山市制60年」 福山市市長公室 1976年

[75]少年野球

昭和10年(1935年)ころ 撮影:村尾嘉久氏・村尾賢二郎氏

尾道市向島町

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明治20年代に広島に野球が入り、中等学校や実業団だけでなく少年にも広まっていった。各地でチームが結成され、大正9年(1920年)からは京都で全国少年野球大会が始まり、翌年には福山で関西少年野球大会が開かれた。その頃は少年選手以上に周囲が熱狂し、問題が出るほどの活況で、野球王国広島を支えた。 映像は向島のグラウンドで野球に興じる子供たちをとらえている。 参考資料:「広島スポーツ100年」中国新聞社 1979年

[76]バレーボールの練習

昭和10年(1935年)ころ 撮影:村尾嘉久氏・村尾賢二郎氏

尾道市

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大正期にアメリカから伝わったバレーボールは、講習を受けた教師から生徒へと広まり、当初は女子に向いた競技とされていた。昭和期になると女学校だけでなく、男子の中等学校にも強豪校が生まれ、広島での黄金時代を築いていった。 このフィルムの撮影場所は不明だが、男性の指導でバレーボールを練習する女子生徒達をとらえている。 参考資料:「広島スポーツ100年」中国新聞社 1979年

[77]道後山スキー場

昭和10年(1935年)ころ 撮影:村尾嘉久氏・村尾賢二郎氏

庄原市比和町

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昭和初期に広島山岳会を通じてスキーが広島に入り、恐羅漢、道後山、吾妻山、金尾原などのスキー場が出現し一般に普及していった。道後山スキー場はスキーヤーなどの旅客誘致をめざす芸備鉄道(現JR芸備線)と地元の協力で作られ、学校行事の勧誘も行われた。 道後山スキー場は雄大な中国山地を望めるスキー場として現在も親しまれている。 参考資料:「広島スポーツ100年」中国新聞社 1979年

[78]「秋の太田川」より

大正15年(1926年)11月11日 撮影:藤井重一氏

広島市安佐北区可部南

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横川駅と可部駅を結ぶJR可部線は、明治期に軽便鉄道として開業、1936年(昭和11年)に国有化された。この映像が撮影された頃は私鉄「広島電気」であり、列車が走る「太田川鉄橋」は国道54線の「太田川橋」に近接し並行していた。鉄道橋を渡る蒸気機関車、太田川橋を走る車、太田川を下る川舟と、当時の3つの交通機関を見ることができる。 映像内の「太田川橋」は、昭和32年(1957年)に架け替えのため三次市に移設、江の川にかかる「祝橋」の名で今も使われている。 参考資料:広島県ホームページ

[79]日本泳法(古式泳法)

昭和13年(1938年)8月 撮影:栄花文造氏

尾道市向島町

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川や海に囲まれた広島県では水泳は古くから武術の一つであり、明治期に入ると学校等でさかんに日本泳法に基づいた「水練」が行われた。大正時代からクロールなど競技としての近代泳法が広まったが、日本泳法も長く教育に用いられた。 映像の前半は学生たちが尾道水道より船で向島の広島文理大学(現・広島大学水産学部)に移動、準備体操、後半は岡山や広島などで普及していた津山系の神伝流日本泳法で、撮影者の趣味でもあった。 参考資料:「広島スポーツ100年」中国新聞社 1979年
協力:神伝流広島游泳同志会

[80]東高屋小学校運動会

昭和15年 (1940年)ころ 撮影:池森修三氏

東広島市高屋町白市

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東高屋小学校(現・高屋東小学校)のある白市は江戸時代より牛馬市が開かれ、市の時期は多くの興業で賑わった。また広島・呉・尾道・三次などへ向かう街道の要衝であり宿場町としてもにぎわった。 記録によると広島県での最初の運動会は明治19年(1886年)で、30年代に入り各学校の年中行事として定着した。 参考資料:東広島市観光協会ホームページ/「広島スポーツ100年」中国新聞社 1979年

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