今年もまた春がやってきました。
淡いピンクの花びらをつけた桜の木の下を、
濃紺のスーツ姿の新入社員らしい男女が歩く姿が、実に微笑ましく感じられる今日この頃です。
遡ること20数年前、私にもそんな時期がありました。
同期入社は私を含めて6人。
アナウンサー採用は私のほかに、女性が2人いました。
1人は身長165cm位で、入社試験の面接時に「背が高くて得することは何ですか?」との質問に、
「物干し竿にすぐ手が届くことです」と大真面目に答えたら試験官全員に大爆笑されて、もう落ちた・・・
と思っていたら内定が出てビックリしたそうです。
その同期はなかなかのオッチョコチョイでした。
ある日ラジオニュースの下読みを終えて準備万端でスタジオへ向かいました。
しかし、いつまで経っても手元のOAランプがつかない。
そうこうしているうちにOA時間が終わってしまいました。
後に確かめたら、入るスタジオを間違えていたのだとか。
そりゃ、ランプはつかない。
さらにその同期は、アナウンサーとしてのデビュー(これを私達の業界では、初鳴きという)も気にしていたようです。
なぜか私の初鳴きを録音したカセットテープを貸して欲しいと言うので渡したところ、なかなか戻ってこない。
そのうち返してくれるだろうと思っているうちに、私の方も貸したこと自体を忘れてしまっていました。
そして彼女は、その1年半後に寿退職。
私の貴重な初鳴きテープは彼女の新生活のお伴になったかどうかは分かりませんが、
私の手元にはありません。
そして、なぜ下手くそな初鳴きテープを貸してほしかったのかも聞きそびれたまんまです。
もう1人の女性は身長150㎝位のやや小さめの同期でした。
彼女はなかなかの肝っ玉の持ち主でした。
入社2日目、狭い会議室で当時の社長から、新社会人としての心構えなどの話を聞く研修をうけたのですが、
なんと彼女は爆睡・・・。
しかも社長の真正面に座っていたにもかかわらずです。
昼休みになって彼女にそのことを聞くと、「だってぇ~、眠かったんだもぉ~ん。」だと。
彼女も彼女だが、それを不問に付した当時の社長も、なかなか懐の深いお人のようでした。
そして、私一柳はどうかというと、人のことは言えません。
アナウンサー試験を受けて入社したものの、
高校や大学時代にそれなりの勉強をして入ってきたのかというと、
これが全くのゼロ。
アナウンサーにとって必需品のアクセント辞典を初めて見たのは、
入社して2週間経ってから。
単語ごとに色々なアクセント記号も一緒に添えられているのですが、
これが、さっぱり意味が分からないのです。
横棒やかぎ棒、○印など。はじめのうちは何とかごまかせていましたが、
見破られるのにそう時間はかかりませんでした。
そのあとはひたすら法則を覚えていきましたけど、今だにかなり怪しい。
そうこうしているうちに20年以上の歳月が流れました。
去年入社した中根、河村の2人の女性アナも
この1日から「新人」という冠がとれました。
この2人は、明らかに私の2年目の頃よりも優秀です。
不器用な私を長く見守って下さった皆さん、一柳のことも宜しくお願いしますね。
晩秋からいつの間にか初冬を迎えました。
何かと気忙しくなっていくこの時期、RCCでも年末年始の特番の話が飛び交っています。
ひとくくりにRCCアナウンス部員といっても、抱えている仕事の内容によって忙しい時期がバラバラ。
私、一柳はといいますと、実は今時期が一年で一番ゆっくり出来る時期です
(これを読んでくれているあなた、忙しかったら御免なさい)。
休みも取りやすくなります。ということで行ってきました。
何処へって?人間ドックにですよ。
今年は2年に1回の「お泊りコース」。1泊2日でガッツリ診てもらいました。
一部の看護師さんとはもう顔なじみになっています。
4年前、そのまま強制入院させられた時に励ましてくれた、高畑淳子似のベテラン看護師さんが今年もいた。
あの時退院後に直筆のお手紙を頂戴し感激したのを思い出した。私のことを覚えていてくださり、とても嬉しかった。
他にも、採血の際「少しだけチクッとしますよぉ~」と今年も優しい声をかけてくれた清水美砂似の看護師さん。
左手薬指の指輪がやけに眩しい。途中で動く時計の針を凝視することで我に返る。
検査自体はそんなに楽しいものではないけど、1泊2日の中で最大の楽しみが食事と大浴場。
偶然会社の先輩と一緒になり、その先輩は食事の写真を撮りまくっていた。
どうするのかと伺うと、嫁さんに見せるのだそうだ(お泊りは浮気じゃないことを証明するためでしょ?だったら僕も一緒に写りましょうか?と聞いてみたが、それはノー・サンキュウーと言われた)。
確かにこの病院の食事は美味しいと評判だ。今年も栗ごはんや、ヒレ肉が出てきた。
シャケ寿司ごはんはおかわりしてしまった。
モリモリ食べた後、総合診断で担当医師から言われたのは
「脂肪肝ですね。あとメタボ気味ですから気を付けましょう。それから、呼吸を止めずにお腹をへこませる運動もしましょうね。」その他も色々言われたが、そこしか覚えていない。
様々な検査の詳細結果はデータと一緒に後日自宅に郵送されて来るので、その時にしっかり確認するとして、確かに医師から言われたことに心当たりはある。
それは、この1年間で、スーツのズボンが合わなくなっていること。
無理やりベルトを締めていたら、新しかったはずのベルトが写真のようになってしまった。
このベルトは、私が入社した当初からお世話になっている人から頂いた大切な品なのに・・・。
反省しています。とりあえず、お腹をへこませる運動から始めます。
8月の中旬になりました。蒸し暑さに体力を奪われるこの時期、家にいるときは出来るだけ睡眠時間をとるようにしています。普段は起床した直後はテレビの前に座ることはないのですが、この時期は10分位はテレビを見てしまいます。なぜかって?甲子園で高校野球をやっているからです。
甲子園にまで出てくる学校の選手なので、皆さすがに体格が良いですね。ユニフォームもカッコいいし、近年はカラフルな色彩のものも多くなっています。
野球小僧だった私が小学生の時最初に憧れたのが、崇徳高校のユニフォームでした。胸の英文字に付いた黄色い縁取りと、ストッキングの下の部分の黄色がとてもカッコよく、目を奪われました。
中学生になって初めて高校野球を見に行った時、アイボリーホワイトのユニフォームに純白のアンダーシャツのお兄さんたちが華麗にボール回しをしていた。ご存じ広商でした。
高校生になってからは広陵。白いユニフォームに、胸の文字、帽子、アンダーシャツ、ストッキングはすべて黒。とてもオーソドックスですが、そこには伝統校としての誇りを感じさせる力強さがありました。
我々のころは少しでも体を大きく見せるためやや大きめのサイズが流行っていましたが、最近は完全に逆行して、ピッチピチなのが流行りのようです。体が出来上がっている3年生はそれなりにカッコよく映りますが、まだ成長過程の下級生を見ると、「大丈夫。もう1~2年すると似合うようになるから、それまで頑張れ。」と思ってしまいます。
甲子園を見ながらフッ・・・と思いました。我がRCC野球部のユニフォームってどうだったっけ?
そこで自宅のクローゼットの中から、私が入社してからの歴代ユニフォームを引っ張り出してみました。
まず、私が入社した時に既にあったユニフォーム。
見て欲しいのは胸のロゴの「RCC」のデザイン。
Rの縦棒が電波をイメージしたものになっています。わかりますか?
野球部の先輩社員が、放送局らしいところを連想できるようにと発案したものです。
その先輩は今も現役で試合に出ています。
2番目は入社5年目位から使っていたもの。
濃紺の下地は変わっていませんが、胸のマークが大きくなりました。
このデザインは後輩の社員が考えてくれたものです。
私はこのユニフォームが今でも大好きです。
こんなデザイン力がある社員を、うちはよく採用してくれました。
当時の人事関係者に感謝。
もちろん本人にも感謝。
3番目が10年前位から現在に至るユニフォームです。
どこかで見たことがあるぞ?と思ったあなたは、やはり野球好きの人です。
2004年アテネ五輪・長嶋ジャパンとほぼ同じデザインです。
では、なぜ、RCCのロゴの左横にジャパンと同じ「J」が入っているのでしょうか?
弊社はニュースについては「Japan News Network」の加盟社(通称JNN)なので、その頭文字のJを加えたからです。
先日このユニフォームが絶版になると聞き、将来新しく入ってくる部員のためにも、デザインを一新しようということになりました。3代目ともお別れかなと覚悟を決めていたところ、絶版話はガセネタであることが判明し、まだまだ一緒にやれることがわかりました。
土、日は勤務になることが多く、なかなか野球部の試合に参加できていない私ですが、RCC野球部はとっても元気です。どこかでお手合わせをさせていただければ幸いです。
センバツ高校野球も終わり、今度は各大学の春季リーグ戦、そしてプロ野球が開幕。
野球ファンにとっては楽しみなシーズンとなりました。
甲子園の時期になると、不思議とキャッチボールをする子供達が増えるなんて、よく言います。
やはり甲子園って少年の心をひきつけてやまない何かがあるんでしょうね。
かく言う私も高校時代までは白球を追いかけていた一人。
延長戦入り直前の9回2死からサヨナラ本塁打を打たれて夏が終わるという残酷な幕切れでした
が、それも青春時代の良き思い出。
今はRCC野球部で、あの頃の様な爽やかな汗ではなく、動かない体を冷や汗で濡らしながら楽しんでいます。
そんな私にもう一回甲子園を目指そうよ!という誘いが同級生からかかってきました。
ピンときました。「マスターズ甲子園」という大会です。
これは数年前から始まった大会で、高校野球経験者が社会人となっている今、出身校のユニフォームを着て各地方予選を勝ち抜いて、憧れの甲子園球場で試合をする全国大会のことです。
以前、県工が出場しているのをTVで見たことがあって、いいなぁ~、あそこで試合が出来て・・・、と思った記憶がありましたが、正直一部の野球名門校OBしか手が届かない大会なんだろうと思っていました。
結構そう思っていた人は多かったみたいです。
しかし、よく考えてみれば、大学・社会人野球上がりのバリバリと言われている人はそう多くないし、マスターズといわれている大会なので、試合を楽しめるように配慮されていて、出場選手の年齢制限もある。
あまり若い人ばかりが同時に出場できないようになっている。
それなら我々にも本戦出場のチャンスはあるぞ(ここで勘違いしてはいけないのが、あくまでもチャンスだけはあるということなのだが・・・)ということになり、私の同級生が音頭をとって、県予選から出場することになりました。
とはいえ、普通の公立高校ながらも、やはり諸先輩方の時代があってこそ私達の代があり、更には後輩達も何百人といる。そこはまず野球部OB会長に打診をして出場の許可をとり、可能な限り、各代のOB達に連絡をとって名簿作りから始めました。こういう時に世話好きの同級生がいてくれて本当に助かりました。
さっそく3月上旬に寒風吹きすさぶ中、OB会長が見守る中第1回の練習開始(私は勤務のため欠席)。
都合がついた数人からスタートしたが、これが想像した以上に悲惨な状況だったらしい。
とにかく体が動かない。1つ上の先輩で今は唐沢寿明にそっくりなY先輩は、見た目は凄くカッコイイのにそりゃイケんじゃろ!とツッコミが入りまくっていたらしい。
現役時代にそんなツッコミをしたなら、当然その日の夜は説教をくらっていたはずだが、もうみんないい歳である。
いい雰囲気だったらしい。
正攻法ではキツイと判断したある同級生は、大先輩の山本浩二さんに頼み込んで、何とか予選免除にしてもらえないか?とそれとなく私に探りを入れてくる者もいた。なるわけがない。
とりあえず県予選の初戦の日時が決まりました。場所は呉。
私「二河球場か。高校3年の夏の予選以来じゃの。」と言うと、
同級生「いや、呉の何とかグラウンドじゃ。しかも朝9時から。」
私「それって何処にあるん?」
再度同級生「わしもようわからん。みんな知らんって言いよったで。」
野球の技量よりも、まずはその場所にたどり着くことが出来るのか、そこが一番心配になってきた。
我が軍は本当に大丈夫なのだろうか。
そして、もし甲子園にまでたどり着けたら、私が打席に立っているときは
「一柳!自分で実況しながら打て!」と言い始める先輩がいたらどうしよう?
楽しい妄想である。
追伸:先週マツダスタジアムで大OBの山本浩二先輩にお会いしました。
マスターズ甲子園の予選に出場する旨をお話ししたところ、とてもにこやかにほほ笑んでくれ、
「お~ぉ、ほうか。頑張れ。」と励ましてくださいました。
やはり大OBは器が大きいなぁ。
しかし、大変なことを一言伝え忘れたことに後から気が付いた。
「先輩も一緒に出ませんか?。」この一言を・・・。
もし実現したら、相手校チームはびっくりするでしょうね。
あれは去年の秋のことでした。会社に一本の電話がかかってきました。
「もしもし、○○小学校のKです。」
名前を言われなくてもその声を聞いただけで、すぐにピンときました。
Kさんとは、私が中学生時代の担任の先生だったからです。
ずいぶん久しぶりに声を聞きました。
最後に会ったのは、私がまだ入社2~3年目の夏、旧市民球場の正面玄関前で甲子園県予選の取材中の時でした。
顔を合わせても「あなた、誰でしたっけ?」と言ってしまう人との再会もあれば、
今回のK先生のように、顔を見なくても声だけ聞けば分かる人がいます。
それだけ私にとってK先生は、とても強烈な先生でした。
強烈といっても昨今問題視されている体罰を受けたからではなく、仲間を思う大切さや言葉で相手を説得することの大事さと難しさ、いじめは絶対に許さないといった、大人になってからも守り続けなければいけない幾つかのことを教わりました。
場所を使ったら、使う前よりもきれいにして返還するのが当たり前というのもK先生からの教えでした。
そのK先生から依頼を受けました。
その内容はというと「自分は来年の3月いっぱいでこの職から離れます。子供達にしてあげられることは、もう残り少ない。その一つとして、子供達がこれからの人生で希望をもっていけるよう、人生の先輩として君から子供達に何かお話しをして欲しい。ほんの少しだけでもいいから。」こんな内容でした。
このような相談をもちかけられることは過去に何回かありましたが、まさか自分の恩師からうけるとは思ってもみませんでした。
何とか力になりたいと思いました。
しかし私の勤務の都合がつかず、結局事前にK先生が勤務する小学校を訪ねて、
数分間のビデオを回してもらってのVTRメッセージの形をとらさせてもらいました。
帰り際にK先生から、お土産とは別に白いビニール袋に入った小さなものを手渡されました。
開けてビックリ。出てきたのは私の担任をしていただいていた当時の「班ノート」でした。
これを私たちは先生との「対話ノート」と呼んでいました。
多少やり方や呼び名の差はあっても、班ノートってあなたも小中学校時代にやった記憶はありませんか?。
担任の先生と、自分や班とを繋ぐノートでしたよね。
K先生は長い教師生活の中で対話ノートをずっと家に保管されていたそうで、今回私との再会に合わせ自宅から持ってきてくださったのです。
これは、大変なノートを受け取ってしまった・・・というのが正直な気持ちでした。
先生にとっては当時受け持った子供達と一緒になって色々なことに取り組んだ証しのもの。
でも私にとっては、将来にむけて無限の可能性を信じていた年齢の頃で、かなり背伸びをして書いていたこともあったはずの恥ずかしい思い出の品。とても人様に見せられるものではなく、受け取った瞬間赤面してしまいました。
そのK先生からは、去年の秋、カープがクライマックス・シリーズ1stステージ突破を決めた私の甲子園での実況を聴いて下さっていて、放送終了後ねぎらいのメールを頂きましたし、これからの私を励ましてくれる一言も添えてくださいました。
歳が明けた今月2日、K先生を囲んで当時の同級生が企画してパーティーが開かれました。
もちろん定年退職を控えた先生に、感謝の気持ちを形にして贈るためのパーティーです。
私は勤務のため参加出来ませんでしたが、きっといい会になったと思っています。
そして先生から預かっている対話ノートは、今だに開くことが出来ません。恥ずかしすぎて。
桜が満開になる頃までには、勇気を出して一度開いてみようと思っています。
そして先生にお返しをするつもりでいます。