7月31日(日)。
佐伯区に流れる川で行われたのが、珍しい“走るイベント”です☆
その名も「第33回八幡川リバーマラソン大会」!
マラソンといっても、42.195㎞ではなく、最長でも3キロ。
ただ、八幡川の中の浅瀬を走るとあって、非常にハードな競技です。
今年は小学3年生から、80代の男性など、延べ1000人近いエントリーがありました。
その大会で実況のお手伝いを去年からやっているのですが、放送席から見えるのは、スタートしてから200mほど。
あっという間に、下流の方へランナーは消えていきます。
ですので、途中は無人の八幡川を目の前に、ひとりでひたすら喋るわけです…(苦笑)
そんな風景を河川敷から見ていると、川に入りたくなってきます!
大人になって川に全身がつかる体験もないですからね・・・。
順位だけではなく、仮装をしながら楽しく八幡川と楽しむという趣旨のランナーもいて、楽しみ方はそれぞれです。
ただトップの選手は、本当に早いっ!
川の中で3キロを17分18秒というタイムで走っていました。
(単純計算すると、1キロ6分弱。100mを35秒で走っているわけです)
深いところでは大人の膝のあたりまで水深はあり、石ころの上も走るので、靴はホームセンターでぴったりフィットするものを探してこの大会に臨まれていました。
また珍しい大会なので、県外はもちろん、今年はデンマークから参加したランナーがいるほど!!
参加費はわずか500円。
川の中から、電子マネーのカードや、スマホ(防水機能付きで無事)が見つかるというハプニングもありましたが・・・大人も子供も楽しめ夏の思い出には最高の1日でした♪
今月14日午後9時半前。
マツダスタジアムでの実況を終えてふと見た携帯電話に表示された「熊本で震度7」の文字。
「うそであって欲しい…。」
それが最初の感情でした。
その思いも虚しく、16日未明には本震が襲いました。
今は地元広島に住んでいますが、2005年、私のアナウンサーとしてのスタートは、熊本の放送局でした。
就職で初めて訪れた県でしたが、本当に住みやすかった街です。
その理由は“広島にそっくりな街だったから”かもしれません。
熊本駅から路面電車に揺られ、川沿いを走り、市内中心部へ向かう雰囲気。
そして中心部には、お城があり、アーケード街が広がっている光景など、
広島と似ているところが多々ありました。
(お城の敷地の広さや、アーケードは本通りをはるかにしのぐ大きさで驚きました。)
そんな町の中心部に近い場所で起きた地震。
その後、南阿蘇村などで土砂崩れもあり、被害は広がってしまいました。
最初に震度7を観測した益城町は、車で市内中心部から東へ30分ほどの場所。
単純に広島での距離感覚でいえば、海田町あたりです。
そんな場所で震度7と思えば、市内中心部もほぼ同じ揺れだったことでしょう。
今回、個人的に大変さを感じるのは、「熊本の中心部」が震源に近かった点です。
市民の足、路面電車が一部で運転を再開するのに、本震から4日かかりました。
以前、私が住んでいた近くでよく利用していた熊本市内のシネコンつきの大きなショッピングモールは、
天井が剥がれ落ちるなど、営業停止が続いています。
またスプリンクラーが作動し、商品も売れなくなったものがあると聞きます。
そして、市民の誇りである熊本城も大きな痛手を負いました。
本丸だけではなく、石垣や櫓など、その周辺も含めて類を見ない大きさのまさに難攻不落のお城が、
被害を受けています。
2007年に築城から400年を迎え、それに合わせ様々な復元工事も行われたばかりだったのに…。
熊本を離れ、約10年。
住んでいた当時は、九州第2の県でありながら、観光地としては長崎や鹿児島に人気で劣っていました。
その後、2011年の九州新幹線全線開業を前に、通過点にならないために様々な取り組みを行い、
熊本の魅力をアピールしてきました。
その中で、キャラクターの「くまモン」が大ヒットして、街の知名度や好感度が一気に高まり、
2012年には熊本市が政令指定都市になりました。
中心部には熊本城、山間には阿蘇や温泉、天草にはきれいな海があり、
食べ物もお酒もおいしい県として、国内外から観光地として再評価されつつある中での今回の地震。
以前の職場の仲間たちは、家に帰っても倒れた家具などを元に戻す暇すらなく、
つらい地元の情報を伝え続けています。
余震もなかなか収まらない中、疲労、不安、恐怖、そしてストレスとの闘いもあるようです。
避難者も多く、復興までは長い期間が必要となることが予想されますが、とにかくこれ以上、
被害が拡大しないことと、被災した方々が一日も早く安心して生活ができるようになることを
祈るばかりです。
そして、また熊本で仲間と笑顔で再会できる日が来るよう願いたいと思います。
そのために、広島からできることを、しっかりと考えていきます。
2015年も残すところあと1週間です。
33歳を迎えた1年。個人的には前半はカープに、後半はサンフレッチェに染まった1年でした。
特に日本一&世界3位に輝いたサンフレッチェからは感動をもらいました。
勝手に自分とサンフレやサッカーの歴史を振り返ってみると…
クラブ発足と同時に当時あった小学生用のサンフレクラブ会員になりました。
当時は高木琢也、前川和也といった大きな選手に憧れ、広島スタジアムにも自転車で通った日々を思い出します。
1994年にビッグアーチであったオールスターは兄と一緒に観戦。バスを出待ちして、ジーコを窓越しに撮った写真は宝物です☆
中学生の頃は、サッカー部でゴールキーパー。決して強くないチームだったのでキーパーは大忙しで、ある意味楽しかったですね。サンフレッチェのキーパースクールに参加したのも懐かしい思い出です♪
高校1年だった1998年。初のワールドカップ出場で日本中が沸いた時でした。TVゲームのウィニングイレブンにはまったのもこの頃からですね(笑)
4年後の大学2年の時は神奈川に住んでいましたが、日韓ワールドカップで授業どころではなかったのを思い出します。サンフレの成績的には苦しい時期だったかもしれませんが、国立競技場、味の素スタジアム、横浜国際競技場など、関東のスタジアムでの応援は脳裏に焼き付いています。
社会人1年目の2005年は、クラブワールドカップの3位決定戦&決勝を横浜で観ましたが、まさかその10年後、サンフレがその大会に出ているとは…。
2007年にはイタリアでACミランvsセルティックをサンシーロで観戦。海外のサポーターのサッカーに対する熱の入れ方に衝撃を受けました。
RCCに入ってもJ1・J2入れ替え戦が行われた京都へバスツアーで一人観戦。
J2降格後も、熊本での試合へ一人観戦。
去年のナビスコカップ決勝も個人的に埼玉スタジアムへ向かいました。(まさかの逆転負けでしたが、あのガンバ戦での教訓が今年のチャンピオンシップに生きた気がします)
そして迎えた今年。
10月以降、毎週のように吉田町に一人で取材。(ラジオですからね)
カープの最終戦の日にも吉田へサンフレの練習取材へ行くと、「きょうは吉田じゃないでしょ」とエースストライカーに突っ込まれました…(苦笑)。
でも、それだけ今年のサンフレッチェに個人的にも期待していたわけです。
正念場を迎えて、柏がケガをすると山岸の活躍。水本がケガをすると佐々木が活躍。誰が出ても同じレベルのサッカーができるのは本当にすごいことです。「腐りそうでも腐らなかった」というある選手の言葉が印象的でしたが、練習での紅白戦で控え組が本気で主力組を喰ってかかろうとしている姿に強さを感じました。そしてその試合に出られない選手のモチベーションを維持し続け、主力組にも成長を促した監督の手腕は脱帽です。
そして、リーグ最終戦ではラジオ実況。
佐藤寿人のJ1通算最多ゴールを電波を通じてお届けできたのは幸せでした。
(歓声が大きく、私の実況は聞こえなかったと思いますが、サポーターの声がゴールの証でした(笑))
チャンピオンシップ第2戦ではピッチリポーターとして、森保監督の10mほどの場所で優勝の瞬間を見ることができ本当に幸せでした♪
テレビの優勝特番のMCを担当しながら、選手とともに喜びを分かち合えて感無量。
終わってエディオンスタジアムを出ようとしたのが深夜2時過ぎ。
たまたま森保監督がタクシーに乗って帰るのと同じタイミングでしたが、車窓から笑顔で私たちに手を振ってくれて疲れが一気に吹き飛びました☆監督が1番疲れているはずなのにその気遣い…最優秀監督の人柄はこんなところにも表れるんでしょうね。
そして23日に行われた優勝パレード。
私は・・・プライベートで普通に平和大通りでサポーターとして参加(^^)
小雨降る中でしたが、シャーレを持った監督の笑顔、手を突き上げる青山主将など、スタジアムとは違った選手の姿はかっこよく映りました。
さて、サンフレッチェの戦いはまだ天皇杯が残っています。
そして残っているというと、大晦日にRCCラジオで“ココスポ”のスペシャルが私の大きな仕事として残っています!
サンフレッチェの柏選手のインタビュー&広島の年末年始に大きな大会を控えているチームを直撃!
大晦日の午前9時から2時間40分の生放送です♪
そして、ひとあし早いですが、今年も1年ありがとうございました。
2016年も石田をはじめ、RCCのテレビ、ラジオをよろしくお願いいたします☆
9月1日の朝5時30分。
普段であれば人の姿はまばらな時間帯ですが、
夜明け前のRCC報道センターに、40人を超える大勢のスタッフが集まりました。
いつもは一緒にカープのナイター中継を担当しているスポーツ部員の姿もあります。
「防災の日」の朝に合わせて、広島での大地震を想定しての特別番組の訓練を行ったためです。
会社の外に出て、中継する記者もいましたが、
私と2年目の中根アナはスタジオで刻々と変化する被害状況などを伝える係りでした。
普段はパソコンできれいに印刷された原稿をニュースでは読んでいますが、緊急時には手書きの原稿もありますし、イアホンによる指示をそのまま口にすることもあります。また地名をどこまで噛み砕けば、全国ネットの特番でも視聴者にわかってもらえるのかなど、思考回路をフル活用です。
停電や携帯電話が満足に使えない状況下で何を伝えられるかも考えなければなりません。
また東日本大震災後、津波に対する表現など、放送で使う言葉も変わりました。
さらにRCCでは他の民放と違いラジオもあります。
災害時にはラジオの存在が高まると言われますが、映像がない中で、正確な情報をいかに届けられるかが問われます。
14年前の2001年3月24日。最大震度6弱の芸予地震がありました。
当時、大学進学直前の春休み。
家でテレビを見ていると、地鳴りと突き上げる縦揺れ、そして横揺れが襲ってきました。
住んでいた南区は震度5弱を観測。2階の私の部屋はCDが散乱し、その上にCDプレーヤーが落下し、お気に入りのCDが割れてしまいました。
逆に言うと、その程度で収まり幸運だったわけですが、揺れている間に、冷静さを失った自分がいたことを覚えています。
芸予地震からあと半年で15年。
そして、仕事に広島のマスコミを選んだ自分がいます。
東日本大震災では、自らも被災者でありながら、仕事で数日、家に帰れないアナウンサーもいました。その中で、不安や恐怖を感じながらも、冷静かつ正しく伝えようとする姿は、心打たれるものがありました。
もちろんこの朝、訓練で使った表現を、本当にマイクの前で使う日が来ないことを祈るばかりですが、万が一の時に、自分がどう動かなければならないのか、それを改めて客観視した今年の防災の日でした。