ジリジリと肌を焼く日差し
例え雪国でも太陽の力は例外ではない
夏は暑い
特に今年は私の人生の中で
様々な意味で"アツい"夏だった
故郷である長野県飯山市は県内有数の豪雪地
雪深いことから「みゆき野」(深雪野)と呼ばれている
人口は約2万人と言われているが、恐らく、、、、そんなにいない(小声)
帰るたびに増えるシャッター商店街
母校の中学は統合によりなくなり、校舎跡地は空き地になっている。
限界集落だってある。
哀愁漂う慣れ親しんだ道を歩くと何故だか、ふと笑みが溢れる。
そんな地元が今夏は大いに湧いた
17歳の子供達が重い扉をこじ開けて新たな歴史を作ってくれたのだ
話は少し遡る
母校長野県飯山北高校(統合により現在飯山高校)野球部の創部は1903年
今年で116年を数える。その長い歴史の中で甲子園出場は春夏合わせ一度も無かった。
2010年秋、私のチームは破竹の勢いで優勝候補を次々と破り、県ベスト4、21世紀枠県推薦校に選ばれた。
遠いと思っていた甲子園
雪深い冬を耐え抜けば、次の夏こそ幼い頃から夢見たあの場所に立てるかもしれない。
新雪を3時間長靴で走り、雪上でノックを受け、薄暗い体育館で血豆を何度も潰しながら素振りをした。
これならば。
これだけ苦しんだのだから。必ず。
しかし現実は甘くなかった。
雪が溶けてまともにグラウンドが使えるようになって2週間後の春の大会は、本来ならコールドで破らなければならない相手にまさかの初戦敗退。
夏は2回戦で第1シード佐久長聖にコールド負け。
難しい。
本当に難しい。
思い知らされた夏であった。
甲子園に行くことはどれだけ難しいのだろうか。どうして行けなかったのだろうか。
練習もした。仲間に恵まれた。
だけど、良い思い出として終うには悔しさが邪魔をする。
負けた瞬間は今でもたまに夢に見る。
入社してから取材で行った甲子園
初めて踏み入る聖地。
入場行進、夢の舞台を勝ち取った子供達が一斉に前進する。
知り合いはいない。なのに何故だかその光景が潤む。
この子たちは本当に凄いなぁ。親孝行だな。
周りを見渡すと同じように涙を流す大人たち。
夢見た者、夢破れた者、託した者、ともに掴んだ人達。
この瞬間、報われた人達は多くいただろう。
同時に悔しさの蓋をあける人もいるだろう。
それだけ思い焦がれた場所なのだ。
そんな甲子園に今年母校のユニフォームを着て足を踏み入れたのだ!!
県大会決勝、試合後半、同点に追いつかれ何度も何度も勝ち越しのピンチが続く、一方攻撃は3者凡退が続く。
またダメか。準優勝なら大したものだ。
そんなことを笑顔で話す地元の大人たちの顔が浮かぶ。
それでも彼らは耐え抜いた。
延長10回サヨナラ勝ち。白球が二遊間をしぶとく破った瞬間、あの苦しかった日々が報われた気がした。
人生で嬉し涙を初めて流した。
(書きながら今も潤む笑)
親父に電話をかける、『よかったなぁ!おめでとう!』
父の声も震えていた。直接はできなかった親孝行が、少しできた気がした。ありがとう。
(父は先日も大好きな西武が優勝して泣いていた)
母親からは『祝甲子園飯山高校!』と書かれたポスターの写真が送られてくる。
あの時は毎日飽きないように沢山おかずが入った3合弁当、よく用意してくれたよなぁ。ありがとう、かーちゃん。とか思い出す。
甲子園、初戦
新幹線を降りて真っ白なユニフォームを羽織る。大好きな自慢のユニフォーム。
いつぶりだろうか。何故だか勇気が湧いてくる。
全員の母校ということで伊東3姉弟が揃う
姉も弟も嬉しそうだ。
甲子園の入り口は親族大集合状態。
少し歩けば知り合いに会う。従兄弟、野球部の先輩後輩、近所のおっちゃん、中学の担任の先生。
いろんなところから「飯山にこんなに人いたの?」と聞こえてくる。
3000人を超える応援団
甲子園のアルプスが、故郷に聳える北アルプスに見えるほど白で埋め尽くされた。
ゲームが始まる。
サイレンが鳴る。
あっという間にゲームが進む。
先制点は母校飯山高校
ポロポロ涙が溢れる。
結果は大敗
それでもいい
胸はっていい
ありがとう
なんとも熱い夏だった。
甲子園一勝の"新しい夢"はまた次の後輩達に引き継がれていく。
野球っていいな!
広島の野球はまだ残っている。
こちらも多くの人の夢を背負っての戦いであろう。
簡単な戦いでないことは容易に想像がつく。
だからこそ応援しがいがあるじゃないか。
スポーツが2019年を最後まで"アツく"締めくくってくれることを信じている。
追伸:捻挫が1ヶ月以上長引く。これは運動不足の極み。自身もスポーツの秋に出来るよう善処いたします。