路面電車開業から
戦時下の広電


戦前の紙屋町交差点の様子(1938年、提供:広島市公文書館)

■ 広島市内の路面電車開業
全国各地で軌道(路面電車)敷設の機運が盛り上がる中、1909年(明治42年)、大阪の大林組創設者の大林芳五郎氏が発起人を代表して広島における電気軌道の敷設を申請し、1910年(明治43年)6月18日に広島電気軌道(株)が誕生、1912年(大正元年)11月23日に広島市内に初めて路面電車が走りました。

当初運行を開始した路線は、本線(広島駅~相生橋)、西塔川線(紙屋町~鷹野橋)、御幸橋線(鷹野橋~御幸橋)、常盤橋線(八丁堀~白島)の4路線で、2週間後の12月8日には本線(相生橋~己斐間)が開通しました。その後、1915年(大正4年)には、宇品線(御幸橋~宇品)が開通しました。

1917年(大正6年)8月2日に広島瓦斯(株)と合併した広島瓦斯電軌(株)は、同年11月に横川線(左官町~横川駅)を開通しました。1922年(大正11年)には、鉄道線の宮島線(己斐~草津)を開通したのち、段階的に延伸し、1931年(昭和6年)には宮島口までの全線が開通しました。また、沿線の楽々園では、住宅地・避暑地の開発を進め、宮島線の利用者増加を図りました。

■ 戦時下の広島と電車
日中戦争が長期化する中、太平洋戦争の開戦した翌年の1942(昭和17)年4月10日、産業別統制の国策により、広島瓦斯電軌(株)から電車・バス部門を分離し、新たに広島電鉄(株)が発足しました。戦争が激しくなると、広島電鉄の市内線電車、宮島線ともに利用者数が急増しました。

当時、沿線には軍需工場も多くあり、軍需産業を支える工員を輸送するため、電車は欠かせない存在となっており、従業員の出征による人手不足、極度な物資の窮乏といった厳しい状況下でも、大型車両の導入や路線の開業・延伸により、輸送力の確保に努力を重ねました。

1944(昭和19)年6月には、観音沖、江波沖の工業地帯への工員輸送のため、軍からの要請も受け、江波線(土橋~舟入南町(現・舟入南))が開通しました。さらに同年12月には、広島駅から宇品港への輸送力強化のため、比治山線(的場町~皆実町三丁目(現・皆実町六丁目))が開通しました。比治山線の新設時には建設資材が不足していたため、宮島線の廿日市(現・広電廿日市)~宮島(現・広電宮島口)間のレールを撤去して単線化し、比治山線に使用しました。これらの路線開通により、現在とほぼ同じ電車路線網が完成しました。


輸送力増強のために新造された大型車両650形(1943年、十日市町付近)

1945年春に入学した家政女学校1年1組生徒集合写真(提供:笹口里子様)

■ 戦争の激化と広島電鉄家政女学校の設立
1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が開戦すると、広島電鉄の従業員の多くが出征したため、人手不足は一層深刻な状態となります。こうした状況下で輸送力を確保するため、1943(昭和18)年4月、広島電鉄家政女学校を設立しました。この学校は、国民学校高等科を卒業した14歳以上の女学生たちが働きながら学ぶ3年制の実業学校でした。女学生は、午前または午後のどちらかで授業を受け、残りの半日は電車またはバスに乗務していました。しかし、戦争が激化した1945(昭和20)年はじめには、人手不足がさらに深刻となり、授業はほとんど行われず、電車・バスへ乗務する日々が続きました。運転士不足も深刻になると、最上級生の女学生は、電車の運転も任されるようになりました。